Friday, April 15, 2011

プエブロ号事件

私が最近関心を持っている問題は60年代末の北朝鮮の攻撃的な対外政策と冷戦の時の共産圏の政策成立の過程です。北朝鮮は66年からだんだん攻撃的になって、68年には大規模な韓国とアメリカに対する軍事作戦を展開しました。その一つが68年一月23日の午後アメリカ海軍の情報艦プエブロ号(USS Pueblo)を捕獲した事です。

プエブロ号は小さい船で、その任務は沖縄の基地でキャップチャーできない北朝鮮の通信を収集する事でした。この船は北朝鮮の領海と国際水域(公海)の間をかすかす航海していました。その時、領海を監視していた北朝鮮の海軍に発覚され、乗務員の二人は戦死して、残りは全部捕まることになりました。

アメリカの政府はこの船が本当に北朝鮮の領海の中にあったかどうか分からなくて、北朝鮮との交渉で首位を維持出来なかったんです。アメリカは色々な外交的な努力をしましたが、国際的な支持をもらえなかったんです。その間、捕まった乗務員達は顧問されたり、北朝鮮の色々な所に引き回されたりしながら苦しんでいました。北朝鮮とアメリカ両者間の交渉はその年の12月になって完成させ、乗務員達がアメリカに戻ってきました。

このため、アメリカの政府は北朝鮮に報奨金を払うと同時にこれからはそんな侵犯はしないと約束をしました。乗務員達は戻ってきましたが、プエブロ号はまだ平壌にあって、北朝鮮の反帝国主義運動の証拠と史料で使われています。そして米海軍によっては、プエブロ号はまだ現役で、いつかは取り戻して来るべきのものです。

Lernerはこの事件について書いた自分の本で、この事件は共産圏の冷戦政策は全てがソ連から作られると思ったアメリカ政府の間違いだと説明します。つまり、北朝鮮はソ連とは違う考えを持っていたが、アメリカはそんなはずはないと思ったのが敗因だったということです。それはそうしても、米軍の情報艦が北朝鮮に見つかれた事はこれが一番目ではなく、北朝鮮は以前からずっとアメリカに抗議していました。では、なぜ68年に北朝鮮はプエブロ号を捕らえたんでしょうか。

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